mardi 9 septembre 2008

産経新聞 2008年9月8日夕刊



 産経新聞で紹介されたと連絡があった。
書評ではなく本の紹介で、短いあらすじのみ。
こんな小さな記事の、こんな簡単な紹介で、いったい誰に「読みたい」と思ってもらえるものか?と思うが、じつは、本好きはけっこう新聞の本の紹介欄を細かくチェックしているものなのだ。
 何を隠そうこのわたしも、本屋で立ち読みできないので、インターネットや、雑誌・新聞の紹介文のみに頼って本を注文している。
外れもけっこうあるので、わたしの読書の好みに近い人や、わたしを個人的に知っている人たちからの、直接の情報「これ、面白かったよ」が一番役に立つ。

 と、いうわけで、新聞のこんな小さな記事も見落とさない読書好きの人たちが、記事を読まない人たちに「この本よかったから読んで」とウワサしてくれることを祈る。

よい本をすすめる会

9月1日
 文研出版から、『わたしは忘れない』が秋田県の『よい本をすすめる会』の特選図書に選ばれたという連絡をもらった。
インターネットで見たら、『わたしは忘れない』は目録74号の中にまだ加えられていなかった。
http://www.npo-books.jp/index_yoiosu.htm

この中から、
幼稚園ーー消防自動車のジプタ、ネズミのよめいり は、昔なじんだ本で、懐かしくなった。

samedi 30 août 2008

わたしは忘れない3



 2008年7月30日 初版第一刷 5000部が発行された。


あとがきから

「おじいちゃんたちがいるのに、一緒に過ごさないのはもったいない。」
レアが言っています。うちの二人の子どもたちも、いつも同じことを言っていました。そして、母親であるわたしは、いつもこんなふうに説明していたのです。
「お母さんたちには、いろいろと大人の事情があるの。仕事は休めないし、おばあちゃんの家は遠いし、おじいちゃんは気難しくて会えばけんかをしてしまうし、田舎に帰ると親戚がうるさいし、夏休みには空港が混んでいるし。。。」
おばあちゃんちに連れて行けない理由は、本当にいろいろあるんですよ。でも、そう言っているうちに、我が家の子どもたちは、おじいちゃんに一回しか会えませんでした。まだ若いと思っていたおじいちゃんが、病気にかかり、あっという間に帰らぬ人となってしまったからです。おじいちゃんとの思い出を、もっと作ってあげられなかったことは、わたしにとって一生心に残るであろう、大きな後悔の傷となりました。
そんな悲しみの日々、わたしは心休まるお気に入りの場所、町の小さな図書室を、さまよっていました。そして、ヤエル・ハッサンさんの本に出会いました。
『だれでも、目の前にいる大好きな人と、いつか別れる日が来るなんて考えもしない。その日が来てしまった時に、「もっとたくさん好きだと言っておけばよかった」と後悔するのね。大好きな人にはいくら好きだと言っても、言い過ぎることはない。だから、言える時に思うぞんぶん、好きだよって言うべきなんだよね。おじいちゃんにも、もっと言っておけばよかった』
この部分を読んだ時に、涙が止まりませんでした。中学の時も、大人になってからも、家族に対しても、いつも、だれかと別れた瞬間に、好きだと言い足りなかったことを後悔してきたはずでした。そして、また父にも言い足りていなかったのです。
レアのおじいちゃんは生きていました。大人たちが歩みよることで、再会することができました。はじめはとっても気難しく、暗く、冷たいおじいちゃんでした。しゃべってくれないから、レアにはおじいちゃんがなにを考えているか分かりません。おじいちゃんには秘密がありそうです。大人たちはみんな何やら隠しごとをしています。でも、レアはあきらめない。いたずらをしたり、意地悪を言ってでも、ふり向いてもらおうとします。そして、おじいちゃんは、少しずつ心を開いてくれるようになります。
おじいちゃんには、とても辛い過去がありました。アウシュビッツで行われた、ユダヤ人大量虐殺の生き残りだったのです。ハッサンさん自身のおじいさんとおばあさんは、ほかの多くのユダヤ人とともに罪もなく殺され、お父さんだけが生き残ったのです。このハッサンさんのお父さんが、レアのおじいちゃんのモデルとなった人物です。
ヤエルさんは、この翻訳本が出版されるにあたって、日本の子どもたちのために、こんな言葉を寄せてくださいました。
《第二次世界大戦のとき、男性・女性・子ども・赤ちゃん、たくさんのユダヤ人が、ユダヤ教を信仰しているというその理由だけで、ナチ党に虐殺されたことを忘れないでほしいから、そして、殺された六十万人もの人々を尊重する気持ちを失わないでほしいから、世界中の子どもたちに、ショアーの事実を伝えつづけていきたいのです。そして、あのような残忍きわまりない行為が、どこにも、だれにも、再び行われることのないように、いつか大人となるあなた方に、注意深く世界を見つめてほしいと願いながら、わたしはこのお話を書きました。》
宗教のこと、人種のことは、歴史と深い関わりがあって、とても難しいかもしれませんが、この本の中では、あなたたちと同じように疑問を持ったレアが、あなたたちに代わって、おじいちゃんに質問してくれます。わからないことや疑問に思ったこと、違うと思ったことなどがあったら、どうぞ、先生や友だち、家族といっしょに、話し合ってください。学校の友だちとの小さな争いをなくすことは、社会の、そしてまた世界の争いをなくすことに繋がっているかもしれません。

わたしは忘れない2



 2007年の夏に、金藤さん親子に、友人宅でお会いした。
今回フランスにはいらっしゃることのできなかった、金藤さんちのお父さんは、画家さんだと言う。できたばかりの詩画集を見せていただき、その線の繊細な抽象画に心打たれた。ふと、抽象画はこどもの本には向かないだろうか?と思う。
 
 ちょうど目星をつけていた画家が、運悪く病に倒れ、「残念ながら、挿絵は辞退させていただく」とのお返事を頂いたばかりで、わたしは途方に暮れていたのだ。その人の絵が大好きなで、どうしても自分の本の挿絵を描いて欲しいとずっと思っていたので、同じようなタイプの絵を描く人を《代わりに》探そうとは考えられなかった。手法も、画材も、全然異なる画家を探し求めていたのだ。

 こどもの本に限らず、本の装丁というのはその本の大事な大事な一面だ。まず本屋さんで「何を読もうかな?」と迷っている子羊をぐっと捕らえて逃がさない、手に取ってもらう役目がある。開いてちらっと読んで、買いたいと思わせるには、まず、視覚で捉えて、手に取ってもらわなければならない。

 「こどもの本に、こんな絵が使えるのか?」
関係者は、みんな思っただろう。でも、真っ先に勇気を出してくれた編集さんがいた。

 編集さんは福岡の金藤先生を訪ねてくださり、挿絵を書いていただく件はどんどん具体的になっていった。先生の鉛筆画を本の表紙にするには、特殊な撮影や、色の調整も必要だった。特殊な作業をするような予算はない。画家さんにはまた過酷な条件の中で、そして、畳一畳分ぐらいのいつものキャンパスから、小さな挿絵に絞られるという慣れない条件の中で、熱心に作業を続けていただいた。

 「挿絵ができれば、予定通り出版で来ます」とのこと。返して言えば、挿絵ができなければいつまでたっても本にならないというようなことだったので、わたしは発破をかけるために(?)別件で帰国した際、鹿児島から福岡まで日帰りで、金藤先生のご自宅を訪ねた。

 先生のアトリエで、芸術家の描いた、本物の絵を前に、先生の描く異次元の世界について少しお話をした。
『天から落ちて来たおじいちゃん』はそのころは『おじいちゃんは天からの贈りもの』になりつつあったが、『大好き、おじいちゃん』や『おじいちゃんは贈り物』などに名前を変え、最終的にわたしの提案した『わたしは忘れない』になった。なにもかも、わたしの希望をできるだけ叶えていただいて、本が出来上がった。

                         つづく

わたしは忘れない1



 2005年という年は、重く暗かった。
冬の図書館で、この本に出逢った。
現代を直訳すると『天から落ちて来たおじいちゃん』という題になる。
ラストにおじいちゃんをがんで亡くす9歳の女の子の、この悲しい物語は、まさに、自分の娘のとわたし自身の物語のような気がした。

 当時、わたしはまだぐずぐずとプロ翻訳家のアシスタントをやっていた。あまりにも仕事が多いので、自分の翻訳本を準備する余裕などなかったし、チャンスも、能力もありそうになかった。
アシスタントの最後の仕事となった、中国の女帝の物語は、史実に従うもので、中国時代の歴史や、中国語の読み物を集めるのに、膨大な時間が掛かった。漢文も歴史も好きな科目だから、けっこう楽しく働いたが、一日八時間以上、数ヶ月の労働が、数万円にしかならなかった日、わたしは絶望した。
「こんなことなら、せめて、仕事をやった分、自分の名前が表紙の片隅にでも残るように、自分の翻訳本を手がけたい!」

 プロの先輩翻訳家からは、「持ち込みは難しい」「レジュメを読んでもらえるのは大変なこと」と聞いていた。そのうえ、「一冊売れたら家が買える」ような小説家とは大違いで、翻訳の仕事で儲かっている人などいないことぐらい、このごろのわたしにはよくわかっていたので、自立しようと思って焦ってはいけないと思えた。

 いつもお世話になっている本屋さんであり、文筆家でもあるヒントブックスの山田さんに相談した。
http://hintbooks.biz/a/wiki.cgi

「出版業界で知ってる人は何人かいるが、その本がどんな分野で、本当に良い作品、また翻訳もどうなのか、わからなければ紹介もできないから、あらすじや感想を書いてみせてください」
と言ってくださった。
そうして、「これで紹介できそうです」と言っていただけるまで、わたしはレジュメを10回以上も書き直した。
またもやわたしには想像もできない人の縁で、大阪の文研出版にたどり着いた。
http://www.shinko-bunken.com/bunken/


 担当の方は、わたしの名前をご存知だった。
『サトウキビ畑のカニア』を読んでくださっていたからだった。この本が名刺代わりになったのだった。

 文研出版にはじめてメールを書いたのが、2006年の1月。2006年の9月に改めて『天から落ちて来たおじいちゃん』のレジュメを送らせていただいた。そのあと出版社から、翻訳専門のエージェントを通して、フランスのカスターマン社と連絡をとり合っていただいて、日本での出版権を獲得したと電話があり、「翻訳開始」となったのが、2006年の10月27日だった。
http://nonoetbobo.blogspot.com/
 一作目の失敗を振り返り、全文の「ざっと訳」はすでにできていたが、納期まで絶対に早送りせず、何度も読み直して、完璧だと思ってから訳を提出することにした。

 一年掛けて翻訳を提出した。その間2007年の春に、フランスで文研出版の編集者の方にお会いする機会と、次の週には原作者のヤエル・ハッサンさんとも朝食をご一緒させていただく機会があった。

                 つづく

サトウキビ畑のカニア5



2004年 7月16日 初版一刷 5500部
2004年 12月30日 初版二刷 1500部

 おかげさまで、めでたく出版された。

(あとがきより一部抜粋)

 主人公のジョエルはクラスの中でただ一人、灰色の肌をした『シャバン』です。そのせいで小さなことでからかわれたり、仲間外れにされたりするので学校が楽しくありません。いっぽうカニアは、身勝手な人間のために捨てられ放っておかれた気の毒な犬です。行くところも食べるところもないカニアは、サトウキビ畑で隠れて暮らしています。自由に歩き回ると「捨て犬だから病気だ。汚い。」と嫌われていじめられるからです。カニアの隠れ家となっているサトウキビ畑は、物語の舞台であるグアドループの重要産業で、ラム酒や砂糖を作るサトウキビの広大な畑です。畑の間の細い通学路でジョエルとカニアの友情の物語が繰り広げられるのです。
 ジョエルとカニアの住んでいるグアドループという島は、昔からまさにいろいろな民族で溢れているところです。コロンブスに発見されてから、原住民のインディアンたちの多くは殺され、残ったものは南アメリカに逃げてしまいました。かわりにヨーロッパ人たちが次々と到着して、長い植民地争いが続きその間に混血の子供達が生まれました。さらに島の産業である、サトウキビ、パイナップル、バナナ、コーヒーなどの農場で働く奴隷や低賃金労働者達は、アフリカ、インド、中国などから連れてこられました。身分の低い労働者の間でもまた混血が生まれ、先祖代々続いた混血の歴史は、新しく『クレオール』という文化を生みました。インドやポルトガル、ヨーロッパやアジア各地の食材を上手に取り入れた料理は『クレオール料理』といわれますし、母語の異なる移民達が、工場や農場で意思を交わすために話す『クレオール語』と呼ばれる言葉も生まれました。カニアのようにいろんな犬の血が混ざって、もうどんな種類とも言えないような、奇妙ともいえる顔をした犬のことを『クレオール犬』と言います。
 人間の長い歴史を見てもわかるように、生まれの違うもの同士が、肌や毛の色、宗教、言語や生活の違いを上手に取り混ぜ、それを新しいものとして大切にし、お互いを尊重しあって仲良くできる人もあれば、混ざりあったものは汚く、醜く、相手は間違っているから受け入れられない、と考える人はどこにもいるようです。そんなことで小さないじめや憎み合いが、大きな戦争や殺し合いになっているというのに。私たちの小さな世界には、ジョエルのように気の毒な動物を大切にする優しい心や、リザのように弱いものたちのために闘おうとする強い心や、カニアのように友達を信じるという素直な心が大切なのではないでしょうか。
 自分たちの小さな日常、家族を思う心、人を敬う心、小さな事にくよくよせず前を向いて変えていこうとする努力がなければ、外の世界も、大きな世界も変えられないのではないでしょうか。それを教えてくれるのがジョエルのおばあちゃん、マンニネットです。
 ジョエルの冒険を通して、グアドループの動植物、自然の風景を垣間見ることができるのも、この物語の魅力だと思います。至るところに輝きを放って、夢を持たせてくれるようなカリブ海の大自然が描かれています。
 このおはなしは、著者がアナイという娘さんのために書いたものです。毎晩子供の枕もとで少しずつ綴った子守唄だったのです。物語のほぼ全般に渡って、実在する場所や人が登場しています。リザが飼っている『ご主人様おもいの勇敢な犬』は著者本人の犬がモデルになっています。ピション家のヴィックは拾われた時から三本脚ですが、アナイの後をどこまでも着いて来ます。原書の挿絵はカリブのまぶしい太陽に美しく映える原色をふんだんに使い、現地で大変人気のある画家ヴィオレット・オージェさんの作品でした。ヴィオレットさんはアナイのお母さんで著者の奥さんです。この本は家族みんなで作ったといっても間違いではないでしょう。両親が娘のためにいろんなことを願いながら、心をこめて描いたお話なのです。

 「グアドループ」という名前は日本ではまだ知らない人も多いでしょう。フランス本国からもあまりにも遠いので、フランスでも知らない人は多いのです。昨年のミス・フランスはグアドループ県出身の女性でした。ミルク・コーヒー色の光る肌をしたこのスマートな女性は、フランス本国の白人女性の憧れとなり、小麦色の肌が流行になりました。スポーツ界では陸上、機械体操、サッカーなどでもグアドループやマルチニーク出身の選手がフランスの国旗を掲げて活躍しています。文芸の世界では、マリーズ・コンデの『生命の樹』や、ベルナベ、コンフィアン、シャモワゾーなどによる『クレオール礼賛』という本が日本語でも翻訳されています。グアドループは鳥の専門家の間ではオウムやインコの輸出国としても知られていますが、「世界最大級のヘラクレスオオカブトムシ」の分布地域ですから、男の子の間ではどこかでこの島の名前を聞いたことがある人もいるでしょう。
 私は南フランスの小さな田舎に住んでいますが、フランス語の翻訳をはじめてから、マダガスカル、レユニオン、マルチニーク、ニューカレドニア、タヒチなどからも「これ訳してください」とインターネットで仕事が届くようになりました。フランスからこんなに離れたところに、フランスの県や領土があり、その土地の人がフランス語で書いたり話したりするなんて、以前は考えたこともありませんでした。ピションさんから「自分の本を日本語にしたいのだが。」といきなりメールを頂いた時に「グアドループ」がどこにあるのかさえはっきりわかりませんでした。でも、この本を読み終わった瞬間に、前に住んでいたことのあるニューカレドニアの燃えるような火焔樹の赤い花や、イセエビが素手で捕まえられる透き通った珊瑚の海、そしてピンク色の羽をゆうがに羽ばたかせて、吸いこまれそうな大空に群れる、セネガルで見たフラミンゴの姿を思い出して胸が熱くなりました。その美しい自然を日本の子供達にぜひ伝えたいと思ったのです。感動や感情が文字になり、フランス語から日本語へ、大人の書いたものが子供の目に映るように訳することの難しさを少しずつ学びました。

サトウキビ畑のカニア4



 姉の紹介で、内海博信氏を紹介していただく。
http://d-l-u.com/k_btgallery/k_btgallery.htm#

 その繊細な絵、人の表情の輝かしさに心惹かれ、挿絵を描いていただけないか、直接お願いした。

 実存する場所の雰囲気、内海さんの訪れたことのない南国の島の様子、日本のこどもたちとは肌の色の違うこどもたちの表情、島の家の形、サトウキビ畑の風景。。。私たちはピションさんの協力により、何十枚もの写真を集めることからはじめた。そして、内海さんに書いていただく数カ所のシーンを決め、そこに使われるべき人やものに近い、参考になりそうな写真を絞っていった。
 内海さんはいったい何枚の絵を描いてくださったのだろう?
わたしの翻訳と同じで、内海さんもまた、
「こんな色合い、表情、ペンタッチでは、日本のこども用の本には向かない」などと、何度言われたことか。
「売りものにするため」に編集者からの注文が続く。。。。

 いっぽう、掛け持ちで数作品を手がける編集者とは、連絡がスムーズに取れず、章ごとに提出した訳の感想や訂正は、数週間も届かない。返事がやっと来ると、あまり思わしくない感想で、書き直し。それは、挿絵担当の内海さんも同じ状況だった。

 内海さんとピションさんとわたしが何百通ものメールを交換して、三人四脚で仕事で来たのは、みんなにとって大きな励みになった。わたしは一人じゃない。みんなの本をみんなで作っているんだ。
私たちはいつも『サトウキビ畑のカニア』のことを「私たちの本」と言った。

                          つづく

サトウキビ畑のカニア3


 「レジュメだけで、編集会議を通過したものの、全体の話はいったいどうなっているのだろう?面白く訳してもらえるんだろうか?」そんな不安を持たない編集者はいないと思う。レジュメだけで編集会議を通過させるとは、すごい賭けをやるものだと思う。

「ざっと全体を訳して、話の流れがわかるように見せてください」
と言われたので、「ざっと」訳した全文を、一ヶ月で出した。そうしたら、
「こんなひどい訳はない。使えない」
と言われたので大いに焦った。
「ええ〜。別にこれが納品ってつもりじゃなかったんですう〜。読み直しもさせてください〜。お願いします、やり直させてください〜〜!!」
こんなはずじゃなかった。もっとちゃんとやってから出せば良かった。。。と大後悔。
「だって〜。ざっとって言ったじゃあないのお〜〜?」

 とりあえず、全体の流れはわかってもらえた。
訳がどうにかなれば、売り物になりそう。。との感想で、点数を挽回した。(ような気がして来た)
ただし、いろいろと注文も出て来た。

 本文中のある部分は、なくてもいいのではないか?
 いきなり現れたこの人物について、もう少しエピソードが欲しい。
 この単語は現地の人にはわかるだろうが、日本のこどもには意味不明だろう。解説を付けて欲しい。
 知らない遠くの島の様子が、もう少し具体的にイメージできるように、風景や人の暮らしについて書き加えて欲しい。
 1300円ぐらいの児童書として売り出すには、ページ数が足りないのでどうにかしてほしい。

「どうにかして欲しい」ことが続々と現れた。

さて、どうする?曲がりなりにも翻訳なので、原文から勝手に省いたり、付け足したりしても良いものか?
ピションさんとも相談し、「直訳」では翻訳本として日本では出版できないということをご理解頂いた。解説や、付け足し部分についてピションさんからもご協力頂けることになった。
最初からやり直しだ。姿勢を整え直す。
そうして、訳が出来上がるまでに、一年ぐらい掛かった。

訳がだいたい出来上がったところで、挿絵画家も見つけなければならない。

                                    つづく

サトウキビ畑のカニア2



 あらすじ・感想・登場人物の紹介・原作者の紹介などをまとめた。(あっという間に書き終えたのではない)

さて、どうやって日本の出版社と連絡をとればいいのか。

 当時のわたしは、何冊もの翻訳を手がけている、あるプロの文芸翻訳家のアシスタントとして、作業を手伝っていた。
調べものをしたり、フランス語の解釈について説明したりする役目だ。
毎日たくさんの質問が番号付きで届き、それにひとつひとつ答えを出していく。
その翻訳家の仕事は、1冊の翻訳本を3ヶ月ぐらいで仕上げるというもので、一人でなにもかもやるのは大変だったのだ。(でもほとんどの人が一人でやってると思う)

 わたしは翻訳の文章作りには一切関わらないが、毎日8時間以上パソコンの前に座り、3ヶ月みっちりお手伝いをして、納品のあと翻訳家からの個人的な謝礼として、3万円から5万円頂けるというお仕事だった。
 いっぽう、わたしの変な日本語について直してもらったり、添削をしてもらったりしたので、とてもよい勉強をさせていただいたし、なによりも、調べものが上手になった。書くのも早くなったし、書くのが辛くなくなった。先輩翻訳家の素晴らしい訳を見て、ため息ばかりついていたが、そんな見本が目の前にあったのは幸運だったと思う。

 その先輩翻訳家さんが、知り合いの方を紹介してくださった。その方はこどもの本には関わりのない人だったので、また別な知り合いの方へと偶然渡されたのが、わたしの書いたものだった。飲み会の席で《こんなのあるよ》と出された、ラッキーなレジュメ。

 気に入ってもらえたはよいが、今度は編集部の会議という壁が待っていた。
4回ほどの会議を通過したのではなかったか。そのたびに「この感想では押しが足りない」「ここをアピールしたら他のに勝てる」などのアドバイスを受け、《感想》も少しずつ形を変えた。「良い本でも、売れなきゃならないんでね。売れるぞと思ってもらえないと会議を通過できないから」ちょっと不安になって来た。

 レジュメを書き上げてから、編集会議を通過するまでに1年ぐらい掛かった。
そうしてついに、くもん出版が日本での翻訳権を獲得。そのうえ、「この本の訳は、あなたにやってもらいます」とまで言われ、大爆発の感動と大きな不安に包まれて、本格的な冒険が始まった。

 わたしが訳したもの、読んだこともないのに、大丈夫なんだろうか。。。。

全然大丈夫じゃなかったのだが、とりあえずわたしが訳させてもらえることになったので、万々歳というわけだ。

                     つづく

サトウキビ畑のカニア1



《 ピションさんからのメール 》

 ぼくの本を一冊分、日本語に訳してもらうとしたら、いくらぐらい掛かりますか?

ある日こんなメールが届いた。
フレデリック・ピションさんはフランスのリヨンの出身で、今は、フランスの海外領土県であるグアドループという島に住んでいる。
「グアドループ?」
どこにあるんだろう?

 カリブ海東部にある小アンティル諸島の中にある島。
主島グアドループと、周辺の5つの小さな島から成っている。
グアドループは蝶の形をしていて、西側の火山島バステール、東側の珊瑚島のグランドテールに別れている。
グアドループの総人口は43万5千人。
総面積は1780平方メートル、首都はバステールという町。

 ピションさんは、当時ジャーナリストとして活躍していた。ナショナル・ジオグラフィックという雑誌に記事や写真を投稿したり、地元の観光雑誌を作成したりしていた。そして、こどものための本を書いている。すでに数冊が出版され、中学生のために講演を行ったりもしている。

 原書を取り寄せてみた。
ヴィオレット・オージェさんの激しい色の表紙が心を惹いた。ヴィオレットさんはピションさんの奥さんとのこと。地元では売れっ子の画家さん。この激しいカリブ風のイラストが、日本のこどもにもうけるだろうか?

 たしかに翻訳の会社をやってはいて、ピションさんはインターネットでわたしの会社を見つけて連絡してくれた。だが、それまで一冊の本を丸ごと訳したことはなかった。
 わたしはふだんは実務翻訳といって、契約書・特許申請書類・レストランのメニュー・インターネットサイトに載せる観光案内・ワインの宣伝、私信などなど《書類》を訳す作業をしている。
フランス語から日本語に訳す場合1単語がいくら、日本語からフランス語に訳す場合1字いくらで計算する。(パソコンの機能で算出されことが多いが、1字ずつ数えなければならない書類もある)
クライアントに見積もりを出して、了解を得てから、たいていの場合1週間以内で訳す仕事だ。

 文芸翻訳の場合、まずは、《企画》を作って、その本をアピールし、出版を受け入れてくれ、同時に日本での出版権を獲得してくれる出版社を捜さなければならない。一度も本を丸ごと一冊訳したことのない無名の翻訳者が、全部訳してから提出しても、出版社がすんなり読んでくれるとは考えられない。
 そのことをピションさんに説明した上で、とりあえず、わたしが本のあらすじと感想・人物紹介・作者紹介などをまとめた《レジュメ」と言われるものを書いて、とりあえずそれを読んでくれる相手を探すことから始めようということになった。そこで、その出版社が、別な翻訳者を指名する可能性もあるので、自分の名前の本が出ようなどとは、期待してはいけないのである。

                  つづく